東日本大震災と原発事故が起こり、その後の政府やメディアの対応や、社会の動きを見て、自分の世界の中に大きな亀裂が生まれた。
そして、様々な疑問が生まれた。
一体、何が起こっているのか?
問題はどこから生じているのか?
これから、どこへ向かっていけばいいのか?
戦前、戦後の歴史を学びなおした。そして、日本の教育システムや、社会システムについて、教えられてきたことではなく、もう一度、自分で様々な情報を集めて考えた。
日本を外からの視点で見直すために、
海外の教育システムについても学んだ。
そして、日本の社会、組織が、トップダウン式のピラミッド構造を持っていて、教育システムもその中にがっちり組み込まれているということに気づくようになった。
「上から言われたことだから、その通りにやる」
という思考は、様々なところに行き渡っており、それを、学校教育が支えているのではないかと思った。
これは、思考停止につながるだけでなく、無責任にもつながっていく。
自分が判断したことではない。言われたからやっているのだという言い訳がまかり通るからだ。
ピラミッド構造の中で、より上のポジションを巡って学力テストで競争していると、疑問を持つことや、前提を問い直していくことをしなくなる。それらは、ゴールへ向かうスピードを鈍らせる行為のように感じられるからだ。
思考を止め、ひたすら競争に勝つためのトレーニングを積んだものだけが勝てるようなゲームのルールになっているように見えるのだ。
予備校は、ある意味、競争を煽りつつ、競争に勝つ方法を教えることで収益を上げるというビジネスだと言える。
そのことに思い至ってからは、自分の内部の矛盾が大きくなり、フィズヨビを続けるのが苦しくなった。
フィズヨビ生に対して、叱咤激励の言葉を投げかけることができなくなった。
自分の仕事が、本当にフィズヨビ生の幸せにつながっていくのかという確信が持てなくなったからだ。
しかし、あることがきっかけで、予備校の持つ別の側面に意識を向けることができた。
自分が19歳の予備校生だった頃を思い出したのだ。
当時、予備校に通うのは、楽しくて仕方がなかった。
高校では教えてくれなかったいろいろなことを講師たちが教えてくれたからだ。
高校の授業では、全く面白くなかった物理は、予備校の中では、もっとも学問の香りがする科目だった。
そこでは、受験テクニックというものではなく、受験というフレームの中ではあったが、学問の面白さを伝えようとしていた。
この年になってから、当時の予備校講師たちが、どんな人たちだったのか考えてみた。
彼らの多くは、大学解体を求めて学生運動に関わり、強大な権力構造とぶつかった結果、大学を離れた人たちだった。
僕が、物理を教わった駿台予備校の山本義隆さんは、元全共闘の議長で、学生運動世代の人にとっては伝説の人物だ。
彼らは、直接口に出して何かを語ることは少なかったが、その存在を通して僕たちに何かを伝えていた。
僕は、その空気感が好きだったのだ。
自分が予備校講師になってから出会った明峯哲夫さんも、山本さんと同じように、学生運動をきっかけに在野の研究者となり、予備校講師として生計を立てていた一人だった。
明峯さんもまた、授業の中で自分の想いを次の世代に伝えようとしていた。
明峯哲夫さんを偲ぶ
システムの存在目的と、その中で動いている人の想いは、必ずしも一致しない。
自分の与えられた枠組の中で、何とかして自分の想いや生き様を表現しようとしてきた人たちのことを思い出したときに、今の自分の想いは、彼らと重なっていて、それは、予備校というメインストリームから外れた場所を通して継承されてきたものだということに気づいた。
社会システムのメインストリームから外れた場所にある場所だったからこそ、一定の自由度が与えられ、そこに公教育よりは自由な学び場生まれていたのだ。
ものごとは、単純ではない。
そこに人が生きている以上、様々な想いが混じり合っている。
僕は、自分が予備校という場で出会い、共振共鳴した人たちの想いを大切にし、それを継承し、自分なりに発展させていこう。
予備校で出会った生徒たちとのつながりも大切にしていこう。
その想いを込めて「フィズヨビ」という名前を継続しようと思う。
「予備校」を否定するのではなく、フィズヨビが「予備校」を名乗りつつ、自由な学び場へと変容していくことで、「予備校」という言葉の意味を変容させていくことを目指す。
そうなることが、自分に関わり、自分を助けてくれた多くの人への恩返しになればと思う。
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かつて予備校という場で継承されていた想い
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